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教育トレンド

大学入試でネットカンニング  韓国での事例など

 <道徳的心の醸成が教育の基礎>

大学入学試験たけなわの2月下旬(2011年)、京都大学の受験生が、試験時間にネット投稿サイトに問題を投稿した問題が起こった。京都大学では「個別学力試験問題の一部がインターネット掲示板に投稿された事件について」と総長からのコメントがホームページにても公表され、大学の根幹を揺るがす事件だ、と危機感を持っていた。
この間、中東のリビア情勢や予算審議国会のことやニュージーランドの大地震のこともあったが、それらそっちのけで多くの新聞が紙面を割いて大きくこちらを報じていた。複数犯人説や大規模組織的犯行との見方もあったようだが、ふたを開けてみれば、東北在住の大手予備校の受験生が一人で携帯電話からネット投稿していたことが発覚した。
携帯電話のメール送信で計六回の投稿をして、その間隔は五~六分だったという。この受験生は偽計業務妨害で起訴された。

■韓国での教育事情
この事件で、多くの人は、韓国でおきた入試不正事件を思い出したことだろう。
二〇〇四年、韓国の大学修学能力試験(日本の大学入試センター試験に当たる試験)で、携帯電話を使った組織的なカンニングが発覚した。この事件では三一四人以上の受験生が失格し、大きな社会問題となった。

 この手口は、成績が優秀な複数の受験生が問題の解答を携帯電話のメールで会場の外にいる人に送信した。彼らはその解答を集約して、「正解」を導き出す。そして、「正解」を待つその他大勢の受験生にメール返信するというものだ。解答を導く成績優秀な者は数万円の謝礼を得て、答えがほしい者は数万円で答えを買っていた。この事件で受験生ら三一人が偽計公務執行妨害罪で起訴され、首謀の七人が懲役八月(執行猶予1年)の有罪判決を受け、二四人が家裁に送致された。

この事件後、韓国政府は〇五年、試験場への携帯やデジタルカメラなどの 持ち込みを禁止する対応策を発表した。今では試験官複数人が小型の探知機を持って 不審者をチェックしているという。法改正にも踏み切り、単純な持ち込みは「無効」、 悪質な不正受験が判明した場合は翌年の受験資格の停止を決めている。
 過日、テレビ報道で韓国の入試現場が放映されていたが、飛行機に搭乗する際のように係員が受験生の全身の検査をしているのだった。
 日本国内の同様な事件を探したところ、一橋大の期末試験で学生二六人が携帯電話のメールを使い答案を送受信し、集団カンニングを行った事件が平成一四年にあった。内容がほぼ同じ答案が多数あることに担当教官が気付いて発覚したものだ。二六人がカンニング行為を認めたため、単位は認定されなかった。

■進展する時代感覚と教育
脳科学者の茂木健一郎さんのコメントは、大学の自治と学問の自由の観点から危機感を訴える。茂木氏のホームページから要約すると「今回の事件は、手法が新しいものであったから世間的な注目を浴びることとなったが、カンニング自体は発覚しないものも含めてある程度の数が行われているものと推定される。
通常のカンニングが発覚した場合、『偽計業務妨害罪』での被害届けが出されるかと言えば必ずしもそうではないだろう。今回の受験生が、その手法の目新しさゆえに『警察沙汰』になってしまったとすれば、他の事例と比較しての公平性の点からも、はなはだ疑問だと言わざるを得ない」というものだ。
また、識者の意見の中には、「選抜する試験問題が、ネット掲示板に聞けば答えてくれるようなものであること自体が問題なのではないか」というのもあった。

 若者がハイテク機器を用いて、カンニングという不正をすることは、旧世代の感覚の枠を超えているものだが、海外の大規模な先例もあるのだから、学校の試験管理体制としては無防備であったようだ。京大受験をする一九歳の年齢の者が、事の善悪を把握できなかったとは思えない。追いつめられた末の行動だったのかもしれないが、私は、現代のひ弱な若者の典型をみるような気がしてならない。大学は、必要な管理をしていないことが露呈した格好でもあるが、だからといって「万引きにあったのは、取られるような物品配列をしていた店が悪いからだ」とも思えない。

■学ぶ・学習するとは
 韓国は学歴社会であるそうだ。良い大学を出れば良い企業に勤務ができ、良い人生が送れるという一つの筋道ができている。だから、過酷な受験戦争が起きている。これは一昔前の日本の社会のようだ。親を安心させたい、だから大学に合格したいと思うのは強い動機であるが、だからといって不正な手段で合格をはかろうとすることは正義ではない。
正義とは何かを学び、実践することは、教育の一つの大きな柱であると筆者は思う。それは、いつ、どこで、どのように醸成されるのか。人間は動物ではない。人間が人間として成立するために、身につけるべきことがあるのではないか。道徳的態度や正義の心や、他への思いやりや、周囲の人との協調性といった事柄を家庭や初等義務教育、といった集団の中で、切磋琢磨の中で体験して、人としての基礎を築いていく。そうして長じて学問という裏付けがあれば、それはさらに強固になる。

現在はその基礎たる学びの家庭が機能不全を起こし、義務教育たる小中学校が制度疲労を起こしている。
私が幼い頃に、母がよく私に言って聞かせてくれた言葉がある。「天知る、地知る、われ知る、人知る(*)と言うのよ。あなたは自分の心に聞きなさい」と。
 どのような立派な管理体制や防御システムができようとも、その網をかいくぐっての違法や法律違反は、根絶はしない。歯止めをかけることができるのは、強い精神、遵法精神といった心の在り方にある。難しいことであるが、それこそが人を育てるという教育の根幹なのではなかろうか。 (了)

(*)
中国の後漢書にある故事。誰も知らないと思っていても、悪事は露呈する。中国・後漢時代の政治家・楊震に地方役人が賄賂を差し出した時、それを断って言った言葉だという。「四知」とも言う。


 


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